昭和43年05月10日 月次祭
 表題の案内がない いきなり御理解が始まる。  末尾途中切れ。


 教祖様御在世の頃から、教祖様はこの尽きぬ評価を、金光大神永世の祀り日とされて神様からそういうお知らせを頂かれて、毎月月の10日を金光大神祭りというお祭りをなさっておられます。尚9月の旧の10日と新暦で言う10月10日とが吊り合う日がある。9月10日と10月の10日と吊り合う日がある。その吊り合う事が金光大神のこも上がりの日ぞというお知らせを受けておられた。御本部へ参拝いたしますと、御大祭の時に必ず、教祖大祭の時にだけでしょうか。
 ここに( ? )祭もあったと思うんですけれども。金光様のいろんな資料、金光家の資料とか、教祖様がお残しになっておられる遺品が。図書館ですかね、図書館で展示してございます。私もそれを読まして頂いた事がございましたけれど。その当時の暦がこうだしてございます。新暦と旧暦の9月の10日と10月の10日が、( ? )なりと本当にあのう、この日こそが金光大神、神あがりの日であったなと思うて感慨を深くするわけでございます。
 そういう意味でこの10日と言う日は、金光教の信者に取りましては大変意義の深い。これは金光大神教祖の神様御一任ではない、私共信心させて頂く者もようするに本当に、とくにこのう10日と言う日を大事にさしてもろうて。金光大神ならずとも自分自身で自分自身の心に帰依が出来る。自分自身の心が拝めれるような。そういう喜びをこの10日のお祭り、月次祭に現してお礼を申し上げると言った様な事になって来たら、この10日のお祭りが有り難い事になって来るのじゃないでしょうかね。
 どうでしょうか。吾とわが身が拝まれる様な心が段々なっていきょりますでしょうか。先程今日は若先生が当番でしたから、お祭り前の前講をつとめておりました。中に私し共は金光教の信奉者である。信徒であると申しておりますですね。私共は天理教の教徒でもなからなければ、キリスト教の信者でもないと言う訳、私共はもうれっきとした金光教の信徒である。同時に信奉者である。最近信心の継承と言う事が、お道では大変やかましくさけばれております。
 2代になり3代になって参りますと信心が薄うなってくる。いや親の信心を継うとしないと言った様な結果ですらなっておるんでございます。金光教の信心が有り難い、もう親代々からの信者だからお前達も、金光教の信心をいただかにゃいけんぞと言うて、無責任にただ金光教の信心を擦り付ける様な継承のされ方ではいけない。と言う様な意味の事を申しておりますですね。お互いがほんとにあのうお道の信奉者であると言う事の自覚に先ず立たなければならない。
 同時にお道の信心がかくも有り難いものだと言う事を、自分が実証し、自分の心にも又それを感じさせてもらう。そういう信心を頂いておらなければ、子供への継承はあまりにも無責任だ。ただいついつはこんな勉強も頂いた。いついつはこういう不思議なおかげを受けたと。と言う様な事だけが金光様の信心を、子供に譲って行くと言った様な事では、子供もよう受けんだろう、またそれを継承すると言う事はあまりにも親として無責任。という本意を申しておりましたですね。
 しかしそういう意味合いにおいて、自信を持っていうなら、確信を持って、この信心こそ子供の孫にいよいよ、子々孫々に伝えて行かなければならない、信心ぞと言うものをです。私共が自信を持ってそれを伝えられるところの内容を、自分自身が身に付けておかなければならない。金光様の信心をさしてもらう。おかげを頂く。お話が有り難い。もしそれだけであったら、ね。そんならもっとならよいいわば、おかげを頂く宗教が現れるかも知れません。
 お話がもっと素晴らしいお話が出来うる人が、又はお話が出来れる宗教があるかも知れん。そすとならその方へ移って行くね。チョウチョウが菜の花から菜の花へ、花から花へ飛びまわる、まわって行く様な信心では、そういう節度のない信心では私しはいよいよつまらん。もう私しはこの信心より外に助かり様がない、私し一家はこのお道の信心より外に救われる道はないと言うところまでお道の信心を一つ頂きたいと思う。
先ず私しは、吾金光教の信者であると言う事が、堂々と誰にでも伝え、言えれるだけの信心を頂きたい。今日午後から稲垣さんがまた2度目のお参りをして見えられた。ほう今日は何事ですかっち。今日はもうお仕事中深町の方へ、職人の方達と一緒になんか調査かなんかおいでらる訳。ちょうど道すがらでしたから、御供え物をまだしてなかったから、お供えものを持って見えたんです
 。それで折角前まで職員の方達、同業の方達見えておられますから、一遍どうり見せてくれと言いよるから、どうぞというて応接にご案内しました。それから私しがちょっとこう説明してまわりました。まぁ結局金光教の信心のPRになる訳ですね。もう話していもうてからえらい金光教信心の宣伝をしましたね。と言うて話した事でしたのでございますけれども。もう実をいうたら皆さん私しは宣伝しなけりゃおられんのですけ。何故かと言うと私しが、こういう有り難い神様、こういう有り難い信心。
 しかもこういうおかげが受けられるという事実を持ってです。本当にもし私しに許されるなら三味線太鼓をこう鳴らしたり弾いたりしながら。町から村へとこう宣伝して廻られるなら宣伝して回りたいごたある。けれどもお道の信心はもう、ここ畳半畳に座り抜かして頂いて、縁ある人がただお参りをして救いを求めて来る。難儀の取次ぎを頼んでくる。それを絶対の確信を持って、お取次ぎをさしてもらう事だけしか、許されていないのがお道の信心なのです。
 教祖が自分からあちらにこちらにお導きに回ると言う訳には参りませんのです。だから縁あって、例えばこのお広前に足一歩踏み入れられたら最後です。私の宣伝を効いてもらわにゃならんというて話したんですけれども。もうこんな話をね、またどうでもお話をお伺いに来たいと言うておられるんです。ですから私は申しました。どうでしょうかこの人も、永瀬さんをさして私は言うんですね。もうここで10何年間、しかもここの総代の御用まで承っておられる。
 皆さん永瀬さんをご覧になってどう言う風に感じられるでしょうか。まぁ真の信心の稽古をしておられるけんちった違うと言った様なものがあるでしょうか。私はとにかくお道の信心はですね。おかげを表して行くと言う事と同時に、私し自身が助かる言うなら私しを見て下さいと言う様なものが何時の間にか身に着いて来ると言う信心にならなければならんのです。というて話しました。私はしかしこの永瀬さんだから言う、なぜかと永瀬さんを信じておる。
 永瀬さんはいわば合楽の信心をです。口では仰らないけれども自分の形で現しておられると信じておったから言えた。信じないとこの人を見て下さい。はぁ合楽の信心なこげな信心ですかと言われたらそれ義理ですね。どうでしょうか。私からこの人を見てやってください。とまぁ言うならば言えれれる信者が、なら合楽に何人なんだろうか。( ? )けれどもです、ね。本当に信心を頂いておるということをです。これは永瀬さん自分自身の心の中に問うて見らなければ本当の事は分りません。
 外では分りません。毎日日参が出来とるだけではわかりません。昨日御祈念後でした。吉井の熊谷さんと、波多野さんがここへお届けにでて見えられましてから、先生昨日は先日から、熊谷さんところの謝恩祭がございました。そんときにいろいろ御用を頂かれました方達が、反省会を昨日おとといなさった。それのいろいろ反省会の話の中にです。波多野さんがこういう事を言われた。
 果した私共は合楽にもう通わして頂く様になって。椛目合楽を通して18年間という長い間、もう毎日お参りを注してもろうては、有り難い御教えを頂いて来たが。果して熊谷さんがそれぞれの信心がですね。何が自分のものなっておるかと。言う事を思ますと、もうほんと何にも自分のものになっていないと言う事が、もう非常に相済まん。とう言う風に自分のものになっているもの、自分のものになっているもの。合楽に通わして頂いて。信心の稽古をさして頂いて。
 果して何が自分のものになっておるか。本当は( ? )熊谷さんどうですか、と聞かれた場合外の事は出来ませんけれども。これだけは私しの信心の筋金でございます。これだけはもう私しの一生一代のいわば守りとしてもらうものです。と言う様なものが果して出来ておるだろうか。そういえば詳しくはなった。随分金光様の御信心を、言わば説明をセロと言うなら、様々な角度から説明できれるだけくらい詳しくはなった。けれども自分自身のものになっていると言う事は( ? )であろうか。
 どうでしょうかねぇ皆さん、こりゃ金光様の信心の素晴らしさを、朝の御理解など頂いとりますとに、ほんに成程御教えの深さ広さ、素晴らしさにただ驚くばかりでございます。けれどもそれが自分のものになっていないとするならばです。例えて言うならここに三味線のお師匠さんがある、そのお師匠さんがそれこそ様々な曲を弾きこなしておられるのを見たり聞いたりしてから、まぁ素晴らしい素晴らしいと聞いておるだけに過ぎない。果して自分が一つでも本当に完全に弾きなおしておるものがあるだろうか。
 ここには信心の稽古に来る所。おかげは我家で受けよとこう仰る、果してここに信心の稽古に通うて来ておるだろうか。おかげを受けげにきたのじゃないだろうか。それじゃやはり信心が身に着かない筈だ。ここには信心の稽古に来る所。おかげはわが家で受けよ。何が自分のものになっておるだろうか、自分のものになっているもの、こう追及して致しますとですたい、本当に驚くばかり自分のものになっていない事に驚きます。いうならばあれも知っとる。
 これも少うしは自分のものになっているけれども、それが一つ完全に自分のものになっていると言う事はない。4,5日前のあの御理解の中にもございましたですね。御教えはタオルの様なもの、お取次ぎは石鹸の様なもの、お風呂に入らせて頂いて、さぁいっちょう垢を落とそう。いちっょう磨こう。と言う様に意識して通うものはないけれども、お風呂に入らして頂いたら、はぁ極楽と言う気持ちがする。言わんでも頼まれんでも、やはり垢をおとさにゃさっぱりしない。
 ごしごしおしゅぐるけれども落ちない。そこで石鹸を付けるとスキッと落ちる。お取次ぎを頂くと言う事はここに一本のビールがある。はぁ飲みたい飲みたいと思うてこうやるけど飲めない。けれどもお取次ぎと言う事、栓抜きと一つ使わして頂く。2,3日前あの浮羽高校の先生がお参り。自動車の免許と何か大事なものを入れた物を落とされた。5日間もうあちらにも訪ね、こちらにも訪ね探しに探したけれども、見当たらなかった。ほんとにとにかくまぁお願いして行こうというて御願いに見えた。
 明くる日警察から連絡があってから出てきた。そん時私しあの栓抜きを頂いた。お届けに見えた時ね、自分ではどうにも出来ない、いけないけれどもお取次ぎを頂いたらそういう働きになって現れて来たと言う事。と言う様にお取次ぎを頂いて信心の稽古をさせて貰う。それで初めて極楽を頂く。タオルというのは教えである。一つの例えば教えがですね、頭を洗うもの足を洗うもの、別々にしない是一本のタオルで頭を洗えば足の方も洗う。一つの教えが本当に身に着いたらそれでおかげが受けられるのだと。
 ですからそのタオル一本これだけは、自分のものになったと言うタオル一本も持たなければ、お風呂にも入られないと言う事がわかる。もうおかげ頂いて、有り難いと思いますと言いながらです。もし自分のものになっていないとするならばです、これは嘘なんです、本当の極楽と言いよるとじゃない。その時波多野さんはそう話され感じられた。私は長年信心の稽古さして頂いておるけれども、何と言うて自分のものになっておると言うものはないけれども。
 先年からの大病によって、あの病気のおかげを頂いた事によって、食物のご恩徳と言う事だけにはもう誰よりも厚くそれを感ずるようになりなしたと。どの様なものを頂きましてもそれが有り難い。ですから有り難く頂くから血にも肉にもなるとこう言うのである。もう確かにですね、これをもっと完璧に頂いたら、もうここの御教え一つで、けっこう極楽息が出来る。「食物はみな人の命の為に、天地の神が作り与えたもうものぞ、何を食うにも有り難く頂く心を忘れなよ。」
 と言う御教えを一つ自分のものにしたらもう必ず極楽の実感と言うかね。信心頂いておる者の有難さというものが分るのです。知っておるけれどもならそこまで徹底していない。何十年信心しとってもです、ね。自分のものになっておる信心と言うものはひとっつもないというのがほんとうではないだろうか。なら波多野さんの場合でも、これを厳密に言うたらまぁだほんなもんじゃなかろうと思う。けどその沢山頂く御教えの中に、まぁややこれだけはありがといと思うようになった。
 これは食物だけの事ではない。自分の命の為に与えられるもの、命の為に与えられるもの。いうならば幸せになる為に与えられるもの。健康になる為に与えられるもの。心が健康になる為に与えられるもの。それには事柄もありゃ物事もあるんです様々な。それも同じ食物を頂く思いで頂かして貰うと言うところに徹底したこの御教えが自分のものになったと言う事が言える。どんなに苦い思いをするものであっても、どんなに臭い思いをするものであっても。
 これこそわが命の為に頂くと言うのである。命の為に与えて下さるものであるというのである。それをいりません。これはもうお断り致します。と言う様な事であって心が健全になるところのおかげになって来る筈がない。まぁ例えて言うなら一つの御教えでもです。自分のものに徹底して自分のものになる。というもう外の事は出来ませんけど、これだけは徹底して頂いとりますと言う様なおかげを頂いていない。
 何故か、その事に本気で取り組んで稽古をしていないからだ、御三味線の稽古なら御三味線の稽古に通いますとね。例えば長唄なら長唄を習いますと、( ? )先ず梅にも春なら梅にも春を習うそして最後には勧進帳あたりの大物の弾きこなせれる様に、段々なってくる。5年10年経っているうちにです。どういう難曲でも弾きこなせれるところの楽しさと言うものが出来て来る。
 それはもう必ず三味線の稽古に本当に通うているからである。聞きに行った時にどげな頭のよかもんでもですね一晩に覚えるような事は出来ん。だから本気でいうならば稽古に通うてくるならばです。ほんきでここに信心の稽古に来るところと仰る。本気で稽古してもらうならばです。例えば180何カ条のこれだけは徹底して自分のものになると、弾きこなせれる一曲位解らなければ嘘なんだけれども。実際は稽古にきょるのじゃない。やはりおかげが目的で無い様にあっておかげが目的。
 まぁいうなればここではあまりにも次々と頂くから、もうどれを専攻しょうどれを専門に一つ自分のものにしようと言った様な。そういう事がぼけておるのかも知れない。ですからほかの先生方いわれた、同じ話をですね、もう何時でも同じ話をですね。10偏も20遍も御話しが出来れる先生。それを聞かして貰えるところの信者であったらおかげを受けると言われたんだ。もう繰り返し繰り返し、同じ事ばぁっかりをそれを何時も御話しが出来れる。それを頂きながらいつも例えて言うならばですね。
 3度3度のお食事がですすよ、あぁまた今日もご飯食べんならんと言う事じゃなくて、何時も同じものじゃあるけれども、それをやはり美味しくさして頂けれる様になったら、信心の本当なものだと言われておりますけれども。ここの場合は私しがそこまではおかげを受けてはおらん。だから手替え品を替えして様々な御教えが、様々な角度から分る。それも私しの知恵ではなくて神様の知恵を持ってそうさせて下さるから。何時も新しい知識が頭に入って来る。
 いわゆる新知識である。ですから合楽にはね新知識な人は非常に多いんです。それを豊富に持っておる。けれどもそれを自分のものにしておるという人は、本当に極まれではなかろうかと思うんです。一つ私はここんところにですね。本当に自分のものになっているもの、信心が自分のものになっている。信心が( ? )教えの教えが自分のものになっている。これだけはもう徹底していただいておる。そこから次のものが会得して出来るのです。じゃそれを会得して行く楽しみが生まれて来るのです。
 一曲よりも二曲、二曲よりも三曲と言う様に、次の段階に進むことが出来るのです。もちろんですからおかげが伴わないはずもありません。20年30年例えば通いましてもね。ほんとに自分のものに何かはせねばという、しかもそれをですね。何時もその例えば、御教えなら御教えをです自分のものにするために、徹底してそれを行ずる、ね。いわば道の行者になると言う事。今日夕方、私しは今日は奉仕をさして頂いとった。そしたらいっぺんまぁ非常に慣れた拝み方をする。
 立派な青年の方がお参りをして来た。御祈念をさせて頂いておって、私しがここへ座っておったらここへ見えてお出でてから。先生私しは甘木の教会の信者でございます。両親が熱心に甘木教会におかげを頂き、私しも子供の時から信心を教えられお参りさして頂いておるのでございますけれども。最近信心がいよいよ解らなくなってしまいました。先生私しはどうしたらばいいでしょうか。私はどう言う事に取り組んだらいいでしょうか。真剣にこの事を願われるのです。
 いわゆる先程若先生が申しておりました様に。信心の継承は難しさ、それでもそういう真剣な姿勢を持ってですね。例えば甘木の教会で得られないから、合楽合楽て皆んなが言うから、合楽に行けばひょっとすれば与えられるかも知れない。折角両親が頂とる信心をただ解らんなりに受け継いだ。信心しとりますだけじゃ自分の心が許さない。何かここにはっきりしたものを頂きたい。先生私しは何を分らしてもろうたら親の信心を継承することが出来るだろうかと言うて真剣なお取次ぎを願われます。
 そこで私しは申しました。御神米に私が「一切信愛と」と書いてやりました。あぁた方覚えておいでられるかも知れませんが。初代の安武先生はどういう信心を持って、その命とされその生命となさったか。貴方がたも御話しを頂いておられるでしょう。というて甘木の先生のお話をまた私しが逆なことでございますけれども。私しは甘木の青年の方にお話しさして頂いたのでございます。甘木の親先生はね、一切が神様の御物であるという自覚に立ってのご信心であった。
 自分のものとしてという物は何一つなかった。安武松太郎と言うものは木の葉一枚でも神様の御物として大事にされた。これが甘木の初代の御信心であった。話を聞くとですね。それがもう新たな事となって響いて行くらしいんですね。それこそ居住まいを正してから( ? )その自分の師匠の、また現在の師匠の師匠のお話を、真剣に聞かれるんです。 私共ももう先生のお話をね直に頂いておる訳じゃないですけれども。先生はそういう御信心をなさったと言う事を承っております。
 そこでです。そこはあなた方がもう充分分っておられるところじゃないかと。一切が神様の御物ですよと。だからそれを徹底して大事にしなければならない。毎日右の方の御結界のお届け数をあちらからこちらの方へ伝票が回って来るんです。ほいでこん位の便箋を4っつ位に切ったのを、それをまぁ二つに切ってちょうど名刺型位にしてそれに何月何日幾らと、参拝者の数をここへ持ってくる。ところが時々そのこげな広かつ、こげな広かなり紙に書いてこっつぁに持って来る事がある。
 そしてからあんたがぁんがしてからこげな事してからちゅて、私がそれを末永さんらには申します。そしたらがんがちゃねぇごつですかちいう。ありゃここげんもんだけじゃなからにゃ解らんそうですね。あんたがぁんがしてから。とてもがぁんがちゅう事が解らじゃった。私は何時うも私が先に一つのこげなふうにしてから、こげんしてから私が書こうが。ね。これで結構間に合おうが、そげでこげん広かなりしてから、そげな事をする事をがぁんがという。いえ今日は博子先生が。なら博子先生に言うと来なさい。
 もう明日からこげながぁんがする事は出来ん。恐らく甘木の親先生ならそう仰るだろうと言うて私し話しました。その師匠の教えのこの事を本気で行じなければ解る筈はないですよと。その事を徹底しなければ解る筈ないですよ。そこを私しは各とき各く私しは頂いておると言うて、お話致しました。甘木の初代は一切があなたの御物として頂かれた。それで大事にされた。私は一切の事柄、一切の事情事柄と言うものを、一切の神様の御事柄として私しは頂いております。
 私しの周辺に起きて来る様々な問題、事件もある、否な思いもある、恥かしい思いをする事もある。腹の立つ様な問題も起って来る。けれどもその事の一切を神様の御事として私しは頂いて来て今日のおかげを頂きましたというて椛目からここへ移って来るこの推移ですね。移り変りのことを、私はここをいかに大事にしたかと言う事を話さして頂いた。はぁこれが先生神愛でございますよと言われる。それを思う事柄をそのまま神愛の現れなんです。けれどもこげん早う分りしちゃいかんですよと言われる。
 それが神愛ですねとこういわれるからね。そりゃまだまだ分からん、それを本気でぎょうじて見て本気で頂いてみて、初めてその後におかげが生まれて来るのです。そしてあの腹の立つ問題も、あの情けない問題も、恥かしい思いをしした事も。一切神愛であった神様の計らいであったと言う事が分るのであって、あんたが今、今日分かったんでは早すぎる。それを行じなければ、ここに一切が神愛だと言う事が分らんのだと。もう本当に畳に頭をすりつける様にしてですね、おかげを頂きましたと言うて帰られた。
 私しも本人もここにですけれども、両親が喜ばれたであろう。甘木の初代も喜んでござろうと思うて感激します。思いもかけない合楽の教会で、自分の師匠どころ安武先生のお話をここで頂こうとは思わなかった。そういう大事な素晴らしい信心を自分のものにしようとする努力もせずして、信心が分らなくなったと言う事は、まだまだそれはいうならばおこがましい言い方なんです。今日の午前中朝の御祈念からずうと、高橋さん御用を頂いておられます。でこの午後までかかり午後遅うまでかかった。
 そしてまた帰られてから又こう出てこられた。それからお届の中に。昨日あちらの平和台にお寿司を出され、400からの寿司を向こうから注文があった。私が昨日申しました。もう一々お伺いをせずにね、向こうの方から注文、いわゆる注文の主の心の中に御繰り合わせを願いなさい。それで向こうが500というなら、は、神様が500作れと仰っておるのだと分れと私は。1000といわれたら、は、1000作れと仰っておられる、だから向こうの注文主の上に心の上に御繰り合わせを願いなさい。
 もうぼちぼち一々お伺いしてから数を出さして貰うといった様なところから、もうそろそろ信心が一つ身に着いていかなきゃいけませんよ。と言うのが昨日か、一昨日かの高橋さんに対する御理解だったんです。所がその昨日は400の注文があったわけなんです。ところがどうした事かですね、350しか売れなかった。50は返品と言う事になった。先生これはどう言う様なわけでしょうか。どういう御神意でしょうか、私しはやっぱりお伺いしなければいけません。わからん。
 それで私が高橋さんに申します。神様はどう言う風に求めちゃるでしょうか。例えばお寿司屋さんが、三軒から治めておるわけですね。ところが向うの信心のないところのお寿司は全部売れてしもうた。自分のところが、例えば売れ残ったってなんて言うたらです。金光様、神様に対して相済まん。そう言う様な事で神様が、あのう可笑しい思いなさることはない。けれども( ? )た、信心しよるものの方が余った。信心しよらん者は売れてしもうた。
 例えばですよ、( ? )つきませんでしたけど、例えばそう言う様な場合であってもです。どう言う訳でしょう。信心あるものの方が売れ残た。これは皆んなの心の中に何とはなしに何時も、モヤモヤしておる様なものでしょうから、やっぱりお祈りしなければいけんのです。皆さんはどうそこを頂かれるでしょうか。そこで私しが申しました。これは神様のどう言う働きでしょうかといわれるから。ほんなこと言うたら、高橋さんその400が雨かなんか降ってから売れじゃった。
 帰って来たと言う方が、神様は喜びなさるかも知れんでと私しは言うた。分かるでしょうか。信心が分ると言う事は、そういう事が分って行く事なんです。本当に高橋さんが真剣に、本当のおかげが頂きたいと言うて、あのような信心が出来修行が出来ておる。これは四神様の御教えの中に、氏子がどうぞおかげを頂かせて下されと言うから。神が廻りの取り払いにかかると、めぐりの取り払いに掛ると、もうこの位でようございますと言うてそれを言う。
 いうなら借金がある、だから借金取りの御用に、神が回るともう取られる方はそん位でようございますという。是では何時まで経っても、本当のおかげにゃならんぞと。高橋さんは楽しみがもっともっと出来た。恐らくもうやがてもうそれこそもうやつき早に、1000作ったら1000損した。500作ったら500売れそこのうた。と言う様な事になるであろうけれども、貴方の信心の程度、貴方の信心の有り難さを感じておる。度合いに応じてです。
 ある場合にはにゃ本当に撫ぜてくするようにしておかげを下さるかと思うと。少うしづつ取り直さして下さっておると言う様な感じ。50の手習いそこを取り払って下さる、これは損にもならんこん位なら。ですからまぁそのくらいづつ言わば人生50づつ巡りの端からお取り払い下さっておると言う様な働きこそが。一番間違いない答えでしょうね。と私しは申しました。だから本当の事言うたら高橋さんこれはね。全部売れそこのうたと言うなら、まぁだほんとは素晴らしい事なんですよ。
そこはお互いの信心銘々の信心はその程度、だから一遍には取らずに神様が少うしづつ、借金取りをして下さっておると言う感じ。是は間違いない。もっと間違いのないと言う事はそれを一切信愛として受けれる信心だと私は申しました。皆さんこう言う様な事がモヤモヤした様な事があるでしょうが。お取次ぎを頂いて起きて来ること、それが良しに付け悪しきに付け、それは全部がおかげなのであります。ということなんです。そこんところ分らなければ、分らなければおかげと言う事が分らんのだ。
 その辺が解って来ると有り難い。是は合楽で私しがもう、説き明かして頂いておる事はこの神愛と言う事ですね。いうなら一切信愛と言う事。いうなら成り行きをだから大事にして行けと。なると言うものはない、あるものは神愛あるのみだ。皆さんがですね。ここんところは例えば10のものを6分り7分り8分り9分りと言うな風に、分っておられる方が大変あるですね。完璧にそれを自分のもんに分っておるという人は少ない。まぁ皆無と言うても良いかも知れん。
 合楽でほんとにこれだけは、ね。自分のものになっておるもの、自分のものになっておるものと言うものがです。これは言葉を変えて言いよるけど本当言うたら、合楽で言うておる事は、椛目合楽を通して言うておることはですね。ほんとにこの神愛と言う事だけを、あらゆる角度から説いておるのです。一切が神愛と解らしてもらうところにです。人間の真実の幸せと言うのがあるのだと。私は説く。信心が解らなくなった、信心が解らん。それが自分なりではありましても。
 例えて言うなら月次祭に時間を切る様な事で分かる筈がありません。そう言うていわれると、実は今日私し7分間時間を切りました。月次祭にきちっと8時には前にでるんですけどね。今日はもうそれこそ汗ぼろぼろで急ぎましたけれども、7分間もう時間を切ってしまった。本当に相済まん。それでもう胸が重うなる位なる。もう月次祭半ばに来っちゃ平気で折れると言う事は、その程度の自分が信心だと言う事を分らにゃいかん。これで信心をうんぬんする。
 お金の事なんかはどうしてなんて、どうして何て言える筈がない、そういう事だからそういう事も言える訳なんです。今日私もう午後から、午後から夕方から非常に身体が又あのう丁度あの。先月の14,5日の様にきつか、もうぬけるごときついんです。かと言うて今日高橋さんが( ? )さしてもらったのはもう殆ど全快にと言う位にです、糖がでないんです。にも拘らず体はきつい、例えば糖こそ出ていないけど、まぁだ全快しておると言う事じゃないと言う事。
 もう今日は全快じゃから全快祝せんならん。いうたらしよるから神様がお気ずけなっと、まぁだほんと全快じゃない。糖が出ていないだけなんだ。本当言うたら神が手を離したらこんなにも身体がきついぞと言う事を、あのう教えて下さったじゃろうとまぁ思います。これも本当かどうか分りません。そげなわけで私しゃ夕方はもう時間がないけれども、休んでから体全身娘に揉ませました。それで7時半に起してくれと私しいうとったもんですから、風呂を使わして頂くのをいれたなかった。
 風呂入とったらあともうすぐ8時ですよと言うからもう私し、このう汗ぼろぼろになって出て参りましたけれども、もう7分間過ぎとった。そうしたらもう自分がもうほんとにんその苦しいんです。だから人間生身を持っとりますからですよ。ほんとに様々な事情を乗り越え踏み越えして来なければなりませんから。それは遅く成る様な事もありますけども。そういう心掛けを持ってですね。例えばそれが出来る。先日青年会の方達が、雑餉の教会に青年会の共励会に参りました。
 今日のそちらの教会は昼の月次祭です。で驚いた事にはですね、それは小さい元の椛目のお広前より小さいお広前だそうですが。もうそこ、表には始まる時間にはそこ一杯。御信者さんに何時もこんなに多かつですかと聞いたら。もう何時も早う着かなければそこ座られんからと言うて皆んな早う見えれれます。と言う事を聞いてですね。はぁ成程長年の歴史を持って、しかも生き生きとしたごひれいが輝いておる雑餉教会の事ですから、さもあろうと思ったんですけれども。
 本当に是は私自身が考えなければならない事でございますけれども。皆さんもやはり努力も、努力も今日私が申します。10日と言う日を金光大神は自分の永世の祀り日として毎月10日を自分で自分の心をお祀りされた。そういう意義のある日なのである。信心とは自分の心に帰依する事。自分で自分の心を拝めれる様になる稽古。その10日と言う日にです、とてもいわばお祭りに遅くなっても平気でおれる様な心で、自分の心がもし拝めておるとするならばあなたの気持ちを有難いとか拝めておると言う事は嘘だと。
 と言う事が言えるのです。是たったこの一言だけでもそうなんです。信心が分らん、分らんごとなった神様も分らんごとなったというて、例えばそう言う一つの為そうと思えば誰でも出来る様な事すらが成されておらずしてです。自分のものになっておらずしてです。おかげの頂ける筈がない。本当のおかげが。そうでしょうが皆さん。この一例が。教祖の御教えをほんとに自分のものにして行く。それには本当にここに稽古に通うてくる。三味線を習う人はほんとに師匠の元に、三味線をかたげていわば稽古に行く様に。
 そして一つ上がった2つ上ったという楽しみを感じれれる様に。それ分っただけじゃいかん。自分が弾きならわにゃ。その御教えが自分のものにならなければ。そしてこれほど信心するのにと言った様な思い方は、本当にこれはおこがましい言い方であると私は思うのです。ところが今日のその甘木の青年信徒の事じゃないですけれども。( ? )信心を( ? )しとっておってもです、やはりお互いの解らなくなって来る様な事があるわけ。改めて初代の信心の素晴らしさを聞かしてもろうてから。
 改めて信心の目がまぁ開いた様な感じで、まかえられたんですけれども。皆さんこうやって月次祭にお参りさせて頂いたら。ほんなこてこれだけは次の月次祭から実行するぞと言う様なことがです。例えば時間励行なら時間励行。8時の霊神様の御祈念までにはもうこれだけの人数がぎっしり。早う参らなきゃもう前のほうにゃ座られんと言うくらいにですね。お互いが熱意を神様の方に向けてもらいまして、そういう姿勢で私しゃ御教えの言わば研究を、探求と言うか。
 それを自分のものにして行く為の稽古を本気でなさらなければならないと言う事をおもいます。自分で自分の心が拝まれる様な、金光大神が永世の祭り日として10日と言う日を大事にされたと言うのでございますから、ね。私は本当にこの10日のお礼のお祭りにお参りさしてもらっとる自分で自分の心の中に、どのくらい合掌で切れる自分であるかと言う事をです。わからしてもろうて自分の信心の御粗末さ加減というものをですわからしてもろうて。成せば成る成れる事。
 ちょっと努力すれば出来る事。その事実は心を向けていないと言うのであっては。これは本当におかげは何時まで経っても頂かれんと言う様な気が致します。私自身自分のものになっているものと言う事、厳密に言うとですね。本当にあれもこれもと言たいのですけども。自分のものになっていると言う事になると、完璧にと言うと中々ですけれども。これを私しの心の守りである。もう私しの信心の心得としてですね。是だけは自分のものにいよいよしていかなければならない。
 気持ちがある事をです私しは日々いうなら18年間皆さんに聞き続けて頂いて来たのです。それはこれ一切信愛と言う事でございます。そういう素晴らしい、お互い信心に取り組まして頂いて、おかげを蒙らして頂いてこそ、初めて若先生が申しておりました。この信心こそお前もここだけは、これだけは、お前も受け継いでおる。これだけは頂けと。子供に孫に伝えて行けれる、いわゆる自信を持って確信を持って伝えて行けれる。信心の継承がなされている。
 同時にそういう間違いのない信心に取り組まして頂いて始めて。自分で自分の心が拝めれる様なおかげ。同時に解らない所は段々分って行くというおかげを頂かして貰うてね。   以下途中末尾切れ